【感想・紹介】『大林宣彦の体験的仕事論』おすすめ映画本

みなさんいかがお過ごしですか?

今回は先日亡くなった大林宣彦監督の本を紹介したいと思います。
取り上げるのは「大林宣彦の体験的仕事論」というPHP新書から2015年に出版された本なんですが、この本は数ある大林監督の本の中でも珍しいビジネス書なんですよ。

大林監督は常に先進的な事をやり続け、60年以上に渡って第一線で活躍してきたわけですが、その秘訣を聞き出すために企画された本なんですよね。

なので大林監督の他の映画の本と違って、どういうビジネス感覚を持って新しい道を切り拓き、どう成功を収めてきたかがわかる本になっています。

ビジネス本といっても、大林監督の語り下ろしを活字に纏めた本なので、大林監督のユーモアのある語りが堪能できとても楽しく読めました。また大林監督の仕事に対する発想にはハッとさせられましたね。

それでは本書の内容を紹介する前に、まずはざっと大林監督の成功の足跡を辿っていきましょう。

<大林宣彦のプロフィール>

【出生】

1938年1月9日、広島県尾道市にて六代続く医家の長男として生まれる。

2歳でブリキの映写機のおもちゃに親しみ、6歳にして35mmフィルムに手描きでアニメーションを作る。

普通は映画を観て監督という職業を志すが、大林の場合は映画を観るより作ることから先に始まった

 

【青年期】

1955年、父に与えられた8ミリカメラを手に上京。
翌年、1年浪人し成城大学文芸学部芸術コース映画科に入学。

在学中から8mmで作品を発表する。
当時はまだ自主製作映画という概念はなかったが、早くから自主制作映画の先駆者として名前を知られた
ちなみに8ミリで(趣味ではなく)映画を作ろうと考えていた人は、高林陽一と飯村隆彦(いいむら たかひこ)の三人しか日本にいなかった

大学では講義に全く出ず一日中グランドピアノの前でシャンソンを弾きながら、聴きに来る女学生たちを8ミリカメラで撮影していた。その中の一人に、のちに妻になる恭子さんが居た。

二人で雑木林を歩き、思わず「僕と結婚しない?」と言ったら、翌日彼女は「昨日の返事はハイです。」と言い、そのまま大林のアパートで半同棲を始めた。
二人はすぐに結婚。恭子夫人はその後大林作品のプロデューサーになり、60年以上に渡って二人三脚で映画製作に向き合うことになる。

1960年に大学を中退。

 

【自主映画作家時代】

自主映画を有料で公開すべく、月刊『小型映画』のコンテストに応募するも落選。
だが編集者の計らいで高林陽一と飯村隆彦と出会い、三人は意気投合する。
これが日本の戦後自主制作・自主上映映画の端緒となる。

画廊で自主映画をかけると大きな反響があり、その後新宿アートシアター(ATG)や池袋人世坐など、大きな映画館で掛けるようになる。

徐々に頭角を現し1963年に藤野一友との共作『喰べた人』でベルギー国際実験映画祭で審査員特別賞受賞。

1964年、仲間達と共に実験映画製作上映グループ「フィルム・アンデパンダン」を結成。
カルト映画の草分け作品を数々残す。『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』は、全国五分の三の大学で上映された


『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』ポスター

大林宣彦監督は前衛映画作家として著名な存在になる

 

【CMディレクター時代】

1964年に開館した新宿紀伊國屋ホールの開館イベントとして「60秒フィルムフェスティバル」を企画。
このイベントで上映された作品をたまたま観ていた電通のプロデューサーにCM監督をやってみないかと誘われ引き受ける。

当時CMは”おトイレタイム”といわれ、作家や映像クリエイターたちからは敬遠されていた。
実際にイベントに参加した仲間も誘いを受けたが、承諾したのは大林一人だったという

1964年、セイコーのテレビコマーシャル(CM)を皮切りに、草創期のテレビCMにCMディレクターとして本格的に関わる。

大林にとってCMはスポンサーつきの個人映画、映像実験室ともいえ、非常に楽しんだ。

高度経済成長の波に乗り、急成長したCM業界で、一日一本のペースでCMを作り続け「CM界の巨匠」の異名を執る

大林の手がけた有名なCMではチャールズ・ブロンソン起用した「マンダム」やソフィア・ローレンを起用した「ホンダ・ロードパル」、カトリーヌ・ドヌーヴを起用した「ラックス化粧品」のCMなどがあり、今日に続く海外スター起用CMの先駆けとなった。

 

 

10年間で製作したテレビCMは3000本を越え、国際CM賞も受賞。テレビCMを新しいフィルムアートの一つとして世の中に認識させ、画期的な映像表現で、日本のテレビCMを飛躍的に進化させた

 

【商業映画に進出】

1977年の『HOUSE』で、商業映画を初監督。
東宝映画は東宝の社員監督しか撮れない時代において、外部の人間が監督をするのは画期的だった。
東宝映画にも関わらず、外部の人間が監督して撮影するのは異例中の異例。

監督は助監督を経験してからなるものであったが、自主映画やCMディレクターから映画監督になるという新たな流れを生み出した。この流れから自主映画出身者として大森一樹や森田芳光、CM出身者として市川準らが監督として世にでることになる

また『HOUSE』は映画制作前から、大林監督が主導しラジオドラマ化、コミック化、ノベライズ化などがされ、今でいう「メディアミックス」の先駆け的な作品にもなる

当時この大林の活動を見て角川春樹が「こういうことをしている監督がいるのか」と興味を持った。

【尾道三部作】

1982年、自身の郷愁を込めて尾道を舞台とした『転校生』を発表。
続けて尾道で『時をかける少女』、『さびしんぼう』を撮り、”尾道三部作として多くの熱狂的な支持を集めた

1984年にはロケ地巡り目的で、20万人以上の若い観光客が訪れる

尾道三部作は地方活性化を旨とした地方発映画の先駆けとなる
また地域における映画製作の道筋を開き、フィルムコミッションの契機となった

フィルム・コミッションとは映画撮影などを誘致することによって地域活性化、文化振興、観光振興を目的とした地方公共団体のこと。

 

【アイドル映画】

大林監督は、新人アイドル・新人女優を主役にした映画作りを行ったことで「アイドル映画の第一人者」とも称される。

角川春樹から「薬師丸ひろ子をアイドルにしてやってくれませんか」との依頼されたことが始まり。
1981年に薬師丸ひろ子主演で『ねらわれた学園』
1983年には原田知世主演で代表作「時をかける少女」を発表。若者から熱狂的な支持を得る。

【2000年代以降】

2004年「科学技術分野における発明・発見や、学術及びスポーツ・芸術文化分野における優れた業績を挙げた方」に授与される紫綬褒章(しじゅほうしょう)を受章。

2009年には 国や公共に対して功労のある者、とりわけ顕著な功績のある者に贈られる旭日小綬章(きょくじつしょう)を受章した。

2010年代に入り、70歳を超えてからも精力的に映画制作を続け2012年には「この空の花 -長岡花火物語」を発表。本作から全編デジタルでの撮影になり、その後の作品でもデジタルの表現の可能性を模索することになる。


「この空の花 -長岡花火物語」ポスター


2013年にはAKB48のミュージック・ビデオ「So long !」が話題になる。

2016年8月に肺癌が判明、ステージ4まで進行しており医師より当初「余命6か月」、後に「余命3か月」の宣告を受ける。

2020年4月10日肺がんで逝去。(82歳没)

遺作となった「海辺の映画館―キネマの玉手箱」は2020年7月31日に公開予定。

<『大林宣彦の体験的仕事論』紹介>

はい、ここまで大林監督の成功の足跡を見てきましたが、ここからは本書の内容を紹介いたします。
冒頭でもお伝えした通り、本書では大林監督のビジネスマンとしての感覚がメインで語られています。

特に興味深かったのは、この大林監督の仕事術には7つの原則があると言うんですね。
この中で特に面白かった原則を感想を交え紹介いたします!

 

①「頼まれた仕事しかしない」

いきなり、「あれ?」って思いますよね。世の中的には仕事は自分から見つけてきたり、あるいは創造した方が良いと考えられており、こと芸術家にとって依頼された仕事は「生活のために仕方なくやる」というイメージが強いですが、大林監督の感覚は違います。

それと言うのも、もし仕事をこちらから頼み込んでやらせて貰った場合はこちらが「下手(しもて)」になってしまい、逆に向こうのいうことを聞かざるを得ず、却って自分のやりたい事ができなくなってしまうと考えるのです。
依頼された仕事であれば、こちらが「上手(かみて)」に立つことができ、自分のやりたい表現に傾注することができます。要は依頼された方が主導権を握りやすくなるというわけです。

例えば『時をかける少女』に関しては角川春樹から、原作は「時をかける少女」、主演は原田知世、舞台は尾道という依頼があっただけで、それ以外は全て大林監督の自由に映画を作れたとのこと。

また2013年に手掛けたAKB48ミュージック・ビデオに関しては、秋元康から3日間で「AKBの人間らしいところを撮ってください」という依頼があり、ミュージックビデオのはずが、現代を生きる娘として「3・11」と向き合わせてみようという発想から1時間の短編映画にしてしまったとのこと。

「上手」に立つことで常に大林監督らしい自由な表現ができていたんですね。
なので大林監督はほとんど依頼された仕事しかしておらず、自ら売り込みをしたことはありません。

でも、ただ待ってるだけでは当然仕事は来ないので、「僕を使わなきゃ、あなたが損するんだよ」と思わせるためのアプローチは一生懸命やっていたそうです。

例えば、8ミリで自主映画を撮ったり、CMディレクターをしていたのも映画界へのアプローチの一つだったと言うんですね。実際に自主映画の上映会に来た電通のプロデューサーにコマーシャルに誘われ、コマーシャルを東宝のスタジオで撮影していたら東宝の人と仲良くなり、それが商業映画1作目の「HOUSE」に繋がったわけです。

大林監督は自ら「監督をやらせてください」と言わずに監督になった人と言うのですから面白いですよね。そのためのアプローチというか外堀を埋める努力は相当なものだったのでしょうが。本当に世間とは逆を行く斬新な発想です。

よく「言葉で発すればそれは実現する」などと言われますが、常に表現をすることで現実を手繰り寄せて来た人なんですね。

 

②「いつも一番高いギャラを求める」

大林監督は仕事をするときにいつも「一番高いギャラをください」と言うそうなんですね。
これは強欲だからそんなことを言っているわけではなく、これには仕事をしやすくするための監督の方便なんだそうです。

どういうことかと言うと、もしスポンサー側が監督に言いたいことがあった場合でも、一番高いギャラを払っているとしたら、「こんなに高いギャラを取る監督なら任せても良いのだろうな」と考え、向こうが口を挟まなくなるというのです。つまり「一番高いギャラ」をもらうことによって発言力が違って来るんですね。

要は「あなたは日本で一番ギャラの高い監督を雇っているんですよ。その監督に思うようにやらせないと、あなたが払っているギャラを損することになります。あなたが払ったギャラを充分に活かそうとするのなら、この大林宣彦の才能を充分に活かすことが一番得なんだから、私のいうことをお聞きなさい」という理屈なんだそうです。

これは妙に納得できてしまう理屈ですね。実際大林監督に一度もクレームが入ったことはないようです。

「一番高いギャラ」を求めた場合、もちろんそれ相応の最高の出来で相手に応えなければならないわけで、命がけで仕事に臨まなければならなくなります。これは作品にとって一番良い結果を生むと考えるんですね。

仮に「安くてもいいです」「いくらでもいいです」といって仕事を引き受けた場合、それは相手に対して「どうせお金がないでしょ」と言っているようなもので、相手に対して却って失礼だと言うんですね。また一度安い値段で引き受けると、次回から高くするのは相当難しくなってしまいます

もし相手が「一番高いギャラ」を払えないなら、「安いギャラ」をもらうよりむしろ無料で引き受けちゃうらしいんですね。それはなぜかと言うと無料より高いものはないから。

きっと無料で仕事をさせた相手は、大きなお返しをしなければならないと考え、後々大きな利益を得ることになるというわけです。

痺れるようなビジネス感覚ですね。

これは熾烈な価格競争で疲弊しきった日本の経済に今一番必要な感覚なのかもしれません。

 

③「自分の仕事に自分の痕跡を遺す」

たとえ依頼された仕事でも、画家が自作の絵にサインをするように、自分が残した仕事に自分の痕跡を遺すことは大事だと言っています。

そうでなければ、自分が作る意味がないし、相手も自分に依頼する意味がないからなんですね。また痕跡を残せば、それを見て別の仕事の依頼が来るかもしれません。

大林監督の場合、その痕跡は何かというと自身の「戦争体験」です。
アイドル映画やファンタジーなどバラエティに富んだフィルモグラフィーを持つ大林監督ですが、なんと全ての作品に一貫して「戦争」が描かれているんですね。

直接は描かれないにしても作品の底にひっそりと埋め込まれています。
いつの時代もどんな状況であっても「反戦」や「平和」を訴え続けてきたんですね。

我々一般の社会人でも、自分が手がける仕事に、何かしらそう言った痕跡を遺すことはできると思います。個性的でクリエイティブな仕事がしたいって言う人は沢山いて、そう言う仕事をしている人の方がかっこいいように思われますが、自分の痕跡を遺すことができればどんな仕事でもクリエイティブな仕事になるのではないでしょうか。

毎日会社で行う業務でも、工夫次第でやり甲斐を見出せるように思いました。

 

<大林監督からのメッセージ>

本書は新書にしては365ページと結構ボリュームのある本なんですよね。
それだけに読み応えも充分あり、仕事術以外にも大林監督の映画に対する考え方や、大林監督の歴史がわかる本となっています。何より大林監督と話しをしているような楽しい読書体験が味わえ、大林監督の人間性に魅了されました。ぜひお手にとってみてください。

最後に働く人々に向けての大林監督のメッセージを紹介いたします。

「この本で僕が語ったことのいろいろが、なんだか途方もない成功談の自慢噺のように聞こえたとしたらごめんなさい。お分りのようにこれは総て僕の失敗談ばかり。むしろ僕はいつも、前例のない失敗ばかりを面白くやってみて、それが新しい成功例につながれば愉しいな、とそう願って懸命に生きてきただけなんですから。(省略)他人のようにうまくやるより、自分らしく失敗しなさい。これが僕が最後にみなさんに伝えたいメッセージなのです。」

P362から抜粋

 

 

画像出典:IMDb

 

 



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